譲れないことの話
私にはどうしても譲れないことがある。
それは、自分が選んだ大好きなものだけに囲まれて暮らすということ。
究極の理想を言えば、自分の視界に入るものの中には嫌いなものがひとつもない、ということである。(これを言うと簡単で当たり前に聞こえるかもしれないが、案外もう気に入ってなかったりするものを使っていること多々あり。)
自分が納得いかずに買ったものだったり(安いから買った等)した場合、本当にテンションが下がる。
テンションが下がるということは、暮らしの質が落ちてしまう。
消耗品はもちろんコストをかけても仕方がないので、そこは除外。
例えば毎日使うマグカップは、北欧雑貨好きなのでARABIAやittalaのもの。
お皿は、蚤の市で買ったくすみブルーのひらひらがついたお皿。
ソファは大阪まで足を運んで購入したTRUCK FURNITUREのもの。
ひざ掛けは、オステルヨートランドの手織り機で作られたもの。
もちろん、高価だから良いとかではなく、そこに思い出があるかどうかが重要だと思う。
事実、こまごまとした雑貨にも心がほっこりして日々救われている。
最近は何でもネットであったり、メルカリであったり、どんなもの(もう売ってないものでも)ボタンひとつで手に入る世の中である。
それはとても便利な反面、大事な過程を飛ばしている気がする。
わざわざ足を運んで買ったものの思い出は消えない。
その時に接客してくれたお店の方の笑顔だったり、景色の色だったり。
自分が嬉しかった感情とともに、そこにある。
年々使っていると、メンテナンスが必要になってくるがそれすらも厭わないし、より愛着が湧く。
また、手に入れたものの背景を知ることが好きである。
例えば、上記に挙げた中のオステルヨートランドのひざ掛けなんかは、スウェーデンのご夫妻が長年の苦労の末に編み出した技法で作っており、なんとも形容しがたいほっこり感を醸し出している。
背景を知ることは、暮らしを豊かにすることに繋がる。
遠い国に思いを馳せたり、そのものが作られる過程を創造することは自分の知っている世界を広げることでもある。
現代社会は何でもスピードが速すぎる。
そこに追いついていくのはとてもしんどいし、追いついていこうと必死になりすぎて、周りの美しい景色を見たり感じたりする余裕がなくなっている(必死になりすぎた時、ふと景色を見ると樹木が色づき始めていたりしてハッとすることがある)。
人には心が復活する方法がそれぞれあると思うが、私の場合は好きなモノに囲まれている時である。
雑貨全般も大好きなので、お店に行くこと自体も大好きであるし、おすすめ雑貨屋リストを作れと言われれば、すぐに作れる自信がある。
そして自分自身もいつかそんな場を提供できればと考えている。
ただモノを使うよりも、モノと向き合いながら暮らしていきたい。
これからどんなに便利になろうとも、そういう姿勢で暮らしていこうと思う。